李陵・山月記 感想 

李陵・山月記   作 中島敦

 新潮文庫の「李陵・山月記」の感想を書きます。中島敦さんの作品を読むのはこれが初めてです。
 この文庫には表題作以外に2編あり、「山月記」「名人伝」「弟子」「李陵」の4編が載っています。調べてみると、山月記以外は没後発表作だそうな。

李陵・山月記 (新潮文庫)李陵・山月記 (新潮文庫)
(2003/12)
中島 敦

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4編なので、全ての作品に感想を書いていきます。

山月記
 国語の教科書にもよく載る短編作品。でも私は教科書では読んだこと無い…。
 あらすじとしては、自尊心の強い詩作家の主人公が、ある理由から発狂(?)し、虎になってしまう、というような感じ。

 私は、この山月記を読みたいがために、この文庫を購入しました。
 最初にこの作品を知ったのは、実はグミ・チョコレート・パイン(感想あり)だったりします。グミチョコの主人公は高校生であり、山月記の主人公とは時代も年齢も能力も違うのですが、『悶々としている』という点では共通しています。

 山月記は単に、夢が叶わなかった芸術家、を書いているわけではないでしょう。書いているのは、臆病な自尊心です。
 臆病な自尊心とは何か、それは自分を否定されたくない、ということでしょう。主人公はその想いと、そこから派生する想いの増大によって虎になるまでになりました。
 しかし、こういう臆病な自尊心は、多かれ少なかれ誰もが持っているものでしょう。みんながみんなプライドが無くて、人から言われればすぐに自分を変えていたら、それはそれで天才も生まれない社会になるでしょうに。

 じゃあ、成功した天才とこの主人公の違いって何だろう?
おそらく、山月記の主人公は、
「自分はすごいやつだ」⇒「詩作やれば成功するに違いない」
という考えだったのでしょう。だから汎用的自尊心が強いまま。ここの『汎用的』っていうのは、ある人間の能力ではなくある人間そのものという意味。
 この考えは『自分はすごい』が前提となっているから、失敗すれば今まで思い込んでいたその前提も瓦解することとなります。自分すらも瓦解するでしょう。その先は…

対して成功した天才は、
「良い詩を作りたい」or「最終的には誰もが認める詩作家になってやる」⇒「詩作に対して猪突猛進!」
という感じだったのでしょう。だから、自分の詩作に対しての自尊心は少なからずあっても、自分自身への自尊心は薄いまま。教えを乞うたり、人に発表することも厭わず。ただただ、その能力を高めるためだけに集中することが出来るのでしょう。
 そういう人は例えボロクソにけなされても、『自分はすごい』という前提を持っていないため、再起は可能です。向いてねーからやめよう、というのはあるかもしれませんが、それでも別のことを始められるでしょう。

 やれば出来る、と考える人たちは多いです。もちろん私もその一人です。現代日本では、学生のときにそこそこ勉強出来ていた人がそういう人になる傾向があると思います。
 何か成功経験があれば、自分は何でも出来る、と思ってしまうことがあります。しかし、やはり人には向き不向きがあります。他人に出来ないことが自分に出来たり、他人が余裕で出来ることが自分には出来なかったり。そういう経験は生きている内に嫌でも経験できますが、なるたけ早いほうが良いのかもしれません。しかし学校にはそんなプログラムは無い。
 
 最後に、なぜ主人公は他の動物ではなく虎になったのか、についての私の考えを書いておきます。
 虎というのは、ものすごく力強い動物です。しかし、あまり頭が良いというのは聞きません。非力(?)で頭が良い主人公とは真逆の存在です。
 主人公が虎になったのは、今まで燻っていた自己否定が一気に爆発した結果、全く逆の存在になったかもしれません。
しかし虎というのは最強の存在の一つです。それは最後の最後まで自尊心を捨て切れなかった自分への皮肉でもあった、という風に私は考えるのですが、どうでしょう。


名人伝
 弓の求道者が弓を極めていく話。
 この話には『不射之射』という言葉が出てきますが、日本の武道の達人の考えのようなものでしたね。漫画の『バガボンド』にそういうのが詳しく載ってましたので、色々既視感がありました。

 最も印象的だったのは、ラストシーン、弓の達人となり弓を持たなくなった主人公が、遂に弓すら忘れてしまった箇所。このシーンは圧巻でしたね。
 別にこれは主人公がボケたわけではなく、何の病気も持っていない正常な状態で、弓を忘れたのでしょう。ここでの『忘れた』という言葉は、普通の意味とは少し違います。何と言いますか、射手にとって弓は当然の存在ですが、主人公にとって弓は当然すぎて認知出来なかったのかもしれません。不射の射を極めて必要なくなった、というのではなくて。
 我々人間は言葉などによってあらゆるものを、分けて、認知することで物を開発したり解明したりしてきました。このラストシーンの主人公は弓に対してそのような作用すらしなくなった、という偉大さを私は感じましたよ。
 

弟子
 孔子に付き従っていた子路に関する話です。
 子路は孔子の弟子としてそれなりの地位にいたようですが、その性情が孔子と異なる点が多い、というのは面白いです。納得できないことには孔子に対しても思いっきり突っかかったり、武術が得意で明快闊達な性格をしている快男子なのが子路です。そしてこの性情は死ぬまで続きます。

 この作品では孔子の教えも多く登場するのですが、全般的に孔子の行動に対しては批判的に書いているように感じました。孔子を「実が無く、自己保身的で言い訳がましい」ように書き、子路を「ひたすら実を求め、猪突猛進的」ように書いています。
 上記のように表わせば、大抵の人は孔子よりも子路を支持するでしょう。私も支持します。

 論語とか読んだこと無いですし、孔子に関する文献もまだ読んだことないのですが、どれも孔子の言うことに賛同したりしているのでしょうか?もしそうならあまり読む気がしないな…。
 中島敦さんの孔子観ってどんなものなのだろう。そしてその由来が知りたい。
 

李陵
 中国西域の匈奴と戦い、捕らえられた李陵の話です。
 中国西域、匈奴というキーワードの二つで、即・井上靖さんの敦煌(感想あり)とか楼蘭(感想あり)を思い出し、「あっ、もしかしてこれ井上靖さんの小説と同じ題材?」と思ったのですが、違うようでした…。
 やはり作者が違いますので、似たような題材でも井上靖さんとは異なる構成でした。私の印象としては、中島敦さんのほうが内省的な人の感情を重視し、井上靖さんは場所や人の人生全体を俯瞰した歴史ロマンを重視しているような感じを受けました。

 この話には李陵と司馬遷(と蘇武)が主人公となりますが、正直、司馬遷と李陵の生き方にはあまり関係性が見られなかったような…。同じ時代の偉人であり、波乱万丈な人生を送ってきた二人ですが…。李陵を惑うものとして、司馬遷を惑わざるものとして描いた?でもそれなら李陵と蘇武だけで良いし…。

 李陵は匈奴に捕らえられ、故国の武帝に家族を殺されます。「李陵が匈奴の味方になって漢に復讐するのか!?」と思いきや、そうではありませんでした。グズグズしているときに、何の疑いも無く武帝への忠信を持ち続けている捕虜の蘇武を見て、李陵は自分が少し情けなくなります。
 帰って来いと言われているから故国に帰ってもいいかもしれないが、家族は殺されてるし、匈奴には賓客として応対されてるし…というように、李陵にとっては故国に帰らない理由はいくつもあります。が、それでも心に引っかかるものがあって、蘇武のようにひたすら忠義を果たし続けて遂に故国に大手を振って帰ることも出来ていたのかもしれない…という小さな後悔もあります。
 もちろん、李陵の選択が間違っていた、というわけではありません。どのような選択をすればどのような未来が待ち受けているのかだなんて、誰も知りえません。どうすれば良いのか、どうすれば良かったのか、自分はどうしたいのか、そういう惑いを、この『李陵』では書いているのだと私は思います。
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タグ:小説 中国 中島敦

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